昭和51年06月26日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」

 今の人達の考え方から、または現代学をもってまぁ考え方からするなら、まぁ実にむちゃなこれは御理解だと思います。いやもう無茶苦茶だと言うでしょう。けれども教祖様はこの様に教えておられる。これを実行すると言う事は大変な度胸のいる事であろう。また神様を確信する、いうなら教祖様の言葉を確信するというところからしか出来ない。いうならば離れ技的な事だろう。この中のまぁ一行ぐらいは出来るかも知れん。腹帯をせずしてというところなどね。
 まぁ教祖様が。私の方のなんかは7人の子供をもっておりますけれども、腹帯びは一番上の子供の時とあのう若先生、二番目の時。おかげでこちらへ帰らせて頂いてから、あの3番目椛目に行っておりますのが生まれましたが。あの時にはもう腹帯を致しませんでした。長女と長男いわゆる豊美と勝彦の場合が、まぁ大変な難産でした。けれども愛子からこちら5人は、もうそれこそ隣知らずの安産でございました。
 教祖の御教えを本気で頂くとか、行ずると言う事をほんのこの全部ではなくてもですね、私共にはもうあのう母が大変やかましかった、私のばばもやかましかった、母もそれでやかましかった。もうお産をしたらあれは1と月間ですか、もう絶対動いてはならん。例えばお風呂でも腰湯だけ。もうそれこそ1ヶ月間は産んだごとしとかなければやかましかった。例えばこの御理解を頂きますと、「生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおりと」ありますね。
 もう生んだその日からでもちゃんと動いている訳、平日の通りだというておられる。だからこの辺の所は、もうやはり無茶苦茶に感ずるでしょう。ところがですそれを本当に例えば、あのう教祖様の御教えを確信したら、嘘を仰っておられるとは思われぬのです。例えば動物のお産なんかをみるとそれが一番よく分かります。いわゆる牛やら馬やらねどんな小動物でもそうでしょうけれども、それはもう産後は大事にして1と月間せとらんならんと言うて、寝る様な動物は一つもいません。大事にするのには人間だけです。
 教祖様のお言葉はもうどこまでも、天地の道理に即応したところから、御教えの表現がなされております。昨日もテレビででしたでしょうか言ってましたが、人間以外の動物に頭痛やら腹痛やらはないと、言った様な事を言っていました。どういうところに、人間だけには病気があって、どういうところに今日はこのお産の事でも、こんなに今の医学では、もうそれこそ大事に、もう妊娠のおかげを頂いたところの時点から、大事にしなければならない。
 それはいかに人間が不自然な自然に反した、いわば生き方をしておるかと言う事が問題であります。動物、動物園なんかでも、人間があぁいろいろな例えば食べ物なんかでも、心を使うていわゆる致しますと、やっぱり動物園の中の動物は病気をすると言う事です。いわゆる人間心ではなくて、いわゆる神ながらな生き方こそ、人間の本当の生き方としなければならない。そこに人間の幸福があるのだ。いわゆる頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ち更になし、平日のとおり。と言う事になる訳であります。
 私共の生活、いわゆる信心生活とこういわれる、その信心生活がです、ただ実意丁寧神信心といわれる、まぁ心がそういう薬と言った様な事だけではなくて、その自然に即応した生き方をさせて頂かなければ、本当な事ではないと言う事が分かります。昨日25日の研修会で、ここの修行生の方達も参加しましたから、いろいろ発表致しました中に、伊藤さんが発表をしておりました。素晴らしい文章で、素晴らしい事を発表しておりました。10年間東京に大学そして就職。
 その間10年間親孝行と思うて、一生懸命金光様の信心をさせてもろうた。ある教会に参拝のおかげを頂いた。同時にやはり有り難い御教えですから、あぁ本当に金光様の信心は有り難いな、立派だなというて、信心を10年間続けさせて頂いた。それは今言う様に、今の金光教のいわば素晴らしい信心と、まぁ申しましょうか、まぁ合楽的ではない、教団、教会、今の全てがあのいき方、そういうありかたを、だけしかないと言う様な事であります。
 例えば、履物なら履物でも、きちっと揃えてあがるとか、と言った様ないうた事を習うてきた。そしてこちらへ帰らせて、ちょうどそのごろお母さん達がここへ、それこそ合楽の御理解のとりこなったといわれるような合い方と熱心に参っておりました時でしたから、自分も一緒にお参りをさせて頂いて、まぁ次々と合楽的体験を受けてまいりました訳ですけれども、その中でもです成り行きを大切にすると言う事を聞いた時に、それこそ足元から鳥が飛び立つ思いであったと昨日は発表しております。
 これはあんまり素晴らしい文章であったからそれは別に、あの後でまた皆さん、よそから見える先生方もここのへんのところをどげなふうに、現代の金光教の信心をどう表現するか、そこのところをなんとかなしに、食い足りないというか、ものたりないものを感じておるというのは、こういう表現で聞いたらはっきり分かるだろう。同時に合楽の信心のいわば素晴らしいことが、また一段と分かるだろうと言う様な表現でした。
 私はこの成り行きを大切にする生き方、そういう中からです、例えばなら今日の御理解なんかも、もっともっと神様を安心して、または確信してこの御教えに取組まれるのじゃないかと言う風に思いますね。私のあの茶室に小さい屏風が、あれに私がありますに苦茶無茶と書いております。苦しい茶、苦茶と。普通は無茶苦茶と申します。今日の御理解はいかにも無茶苦茶のようですけれどもね、これを現代の人が聞いたら教祖様は無茶な事を言われるとね、いちになばるだと言うかも知れません。
 けれどもそうではない。例えばね、これはどなたでしたでしょうか大変お茶の名人で、あのう人がお坊さんがおられました。托鉢に出られて帰ってこられると、お茶かしさんがあっておった。それですぐ手足をあろうて、それから托鉢にに使われる、あれはなんと申しましょうかね、鉢をね、持っております。その鉢で綺麗にこぉ手やら顔を洗うて、それでまた綺麗に洗うて、なんにもない、まぁその道一筋に修行をし、また一筋にと言う様な方ですからね。
 その今自分が手を洗ったり、顔を洗ったりしたその鉢を綺麗に洗ってそれで、お茶を立てて出したという訳です。それがあまりにも素晴らしかった。そのお客さんが流石にお茶の名人だというて感心したという話があります。無茶苦茶な話です。けれどもお茶の道ということを、もう心の底から体得しておる。お茶というものはこうだと、そのお茶のせいはんを体得しておる。
 これが、普通のものにしたら、「なんちいうろくそな事をしておるじゃろうか、なんち汚い事じゃろうか、まぁなんという不潔な事であろうか」と言うかも知れないけれども、そのお茶の宗匠がなさった、その手を洗ったり顔を洗うたりした、その鉢でもってお茶を出されても、いうなら不適さも汚さも感じさせんほどしの素晴らしさであった。まさに苦茶無茶である。苦しい所を通っての無茶である。苦茶をだから苦茶が先なんです。苦しいお茶の修行をさせて頂いての無茶である。
 だから無茶苦茶ではなくて、苦茶無茶だというのです。今日の御理解も例えば、この御理解がです、いかにも無茶なようででありますけれども、本当に自然のはたらきそのものを、神様の御はたらきとしてです頂き、成り行きをいよいよ尊び大切にさせて頂くような、生き方からいたしますとです、決してね、お産の後にすぐ自分の乳をのましてはならないとか、またはひと月間は寝ておかなきゃならんとか、そこれそ産前、身軽く、隣知らずの安産のおかげが頂けれる様な事だと思います。
 今日の御理解は、いかにも苦茶無茶ね。例えば、あぁ伊藤君昨日の発表しておりましたように、今の金光教で素晴らしいよい教会であり、素晴らしい教えをなさるのだけれども、それはどこまでね、いわば合楽でいう、その成り行きそのものを大事にすると言う様ないき方ではない。10年間と言うならば苦しい信心修行をさせて頂いておって、初めて合楽の教えに触れた時にです、それこそ足元から鳥がが飛び立つ思いで、その教えに飛びついた。そして教会修行を始めたと言う訳でであります。
 だからもし、いうならお道の信心というか、合楽の信心的な信心を身につけていなかったら、この私は御理解は実に無茶な、御理解だなぁと思うだろうと思いますけれども、合楽の信心をひと通りマスターするというか、天地の道理が分かって、その道理に即応する生き方がね、自然のはたらきそのものを大切にする事だ、と言う様な生き方が身についてまいりましたら、これはもう実にまともな、ほかの動物ですらも、いうならば身軽にお産をする。その例えば前後な事でもです。
 実に自然に即応した生き方でおるのに、万物の霊長といわれる人間が、そういう不自然な生き方をするところから、結果はやはりまぁいうならば、不自然な結果にしか終わらないと言う事を、この85節で感じさせられます。これは女の方の言うならば、お産の事に付いて出ございましょうけれども、これは日常生活の上においてもそうです。本当の意味合いにおいての、自然のおかげを生みなして行くと言う事のために、最近頂きます自分の心の要素というものをいよいよ、要素たらしめるためにね。
 拝山、いうなら自然に起きて来る成り行きそのものがどんなに、それは例えば嫌な事であろうが、苦しい事であろうが、それを黙って合掌して受けていくという生き方から、素晴らしい、いうなら身軽な安産が出来れる様に、素晴らしいよいおかげが、自然にしかも神様に地団駄踏んで願うと言った様な事をしなくても、自ずと有り難い道が開けてくると言う事も言える訳ですね。
   どうぞ。